竹下義樹(弁護士)のwiki経歴や結婚に子どもは?司法試験への挑戦と武闘派弁護士の活動『逆転人生』

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(出典 : http://tsukushilo.com/)

今回は、9月21日オンエアの

『逆転人生』で紹介された、

弁護士の竹下義樹(たけした・

よしき)さんをクローズアップ

したいと思います。

生まれながらの弱視から、

中学生時代に全盲となった

竹下義樹さんは、なぜ

弁護士を目指したのか?

盲人の司法試験の受験が認められて

いないばかりか、点訳の六法全書も

なかった時代に、9回もの挑戦を経て

見事合格した壮絶な経歴と、家族の

支え、そして「武闘派」弁護士とも

呼ばれるキャリアをまとめました。

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竹下義樹さんの経歴

中学~大学時代

竹下義樹さんは1951年生まれ。

生まれながらの弱視でしたが、

中学時代に熱中した相撲の稽古中に

網膜剥離を起こし、わずかに光を

感じられる程度の全盲となります。

中学卒業後は盲学校に進学、盲人の

職業といえば鍼灸マッサージ師しか

選択肢のない中、その資格を取得

しました。

しかし、竹下義樹さんの思いは、

弁護士になりたいというものでした。

動機はいたって単純で、

「かっこよくて、金儲けができるから」

と語っていますが、それでも2浪して

龍谷大学法学部に合格します。

司法試験への挑戦

当時は法学部を卒業すれば

弁護士になれると思い込んでいた

竹下義樹さんは、大学に入学して

から司法試験の存在を知ります。

しかも当時の司法試験は盲人の

受験を認めていませんでした。

竹下義樹さんにボランティアが

協力して、法務省に直訴しに行っても、

できませんの一点張り。

それでもあきらめずに署名活動を

したり、再三直訴に行ったりする中、

竹下義樹さんは自分についてきて

もらった弁護士の熱弁に心を

打たれたといいます。

自分も弱者や少数者のために働きたい――。

竹下義樹さんの決意が実り、

2年後に司法試験の点字受験が

実現しました。

しかし、せっかく点字受験が認められた

にもかかわらず、試験の時間は通常の

司法試験と同じでした。

点字は読むのに時間がかかるため、

竹下義樹さんはすべての問題に答える

ことができず、1回目、2回目の受験は

不合格となりました。

3回目はやっと点字受験の時間延長が

認められましたが、これも不合格。

竹下義樹さんはマッサージ師として

生活費を稼ぎながら、猛勉強して

司法試験に臨み続けました。

それでも不合格が続き、生活も苦しく

なる中、ついに9回目の受験で合格

勝ち取ったのです。

法務省に直訴していた時から数えて

10年の月日がかかりましたが、

竹下義樹さんは1981年に、盲人と

して初めて司法試験に合格し、

弁護士の資格を得るという快挙を

成し遂げました。

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竹下義樹さんの嫁や子どもは?

司法試験への挑戦を支えてくれたのは、

21歳の時に学生結婚した妻の寿子さんと、

2人の子どもの存在でした。

合格率も低く、盲人というハンデを

背負って司法試験に挑み続ける

竹下義樹さんに、妻の寿子さん

「辞めて」とは言わず、ともに

ひたすら辛抱したといいます。

子どもが2人いることも考えると、

まず第一に生活の安定を望んでしまう

のが普通だと思いますが、夫の夢と、

あきらめない闘志を誰よりも理解して

いてたのでしょう。

しかしそれにしても10年は長い!と

思いますが、寿子さんは、

「言ったらもうそれをやらないと

気が済まない人だから」

と、サラッと語っていました。

なかなかできないことだと思います。

そして竹下義樹さんも、

「いちばんこわいのは嫁さん」

と茶化していましたが、

いちばん苦労した時代を支えてくれた

奥さんに深く感謝しているのが窺えました。

竹下義樹さんが奥さんとともに切り

開いた道を追って、のちに盲人の弁護士が

3人誕生するのですが、まさに国を動かし、

社会を動かした偉業だったことが分かります。

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武闘派の弁護士

「社会からないがしろにされている

人の声を届けたい」。

弁護士となった竹下義樹さん

国や組織を相手取って弱者の声を

代弁してきました。

ホームレスの生活保護打ち切り

竹下義樹さんが出会ったのは、

ホームレスの結核患者の老人でした。

長く建設現場で働いてきたものの、

病気を機に働けなくなり、困窮した

人でした。

その人には、病院に入院している間、

生活保護が適用されていましたが、

退院してホームレスになってしまうと、

行政は生活保護を打ち切ってしまった

のです。

この社会は、働けなくなった人を

排除する、と、竹下義樹さんは痛感し、

生活保護撤廃の撤回を求めて、弁護を

き受けました。

しかし、当時は行政を相手に裁判を

起こしてもほぼ敗訴するという厳しい

現実がありました。

行政の本音は、一度ホームレスに

生活保護を受けさせる前例を作って

しまうと、日本中からホームレスが

押し寄せてきて、財政が破綻する

という、排除の理屈がそびえて

いたのです。

裁判が長引く中、原告だった老人が

亡くなっても、竹下義樹さんは行政

訴訟に切り替えて戦いを続けました。

老人が言った

「僕のような苦しみを味わう人を、

もう増やさないでほしい」

という遺志を守ったのです。

竹下義樹さんは、老人が退院後に

身を寄せた知人の家の電話番号を

行政が把握していたことに気づき、

居所を把握していながら、ホーム

レスと断定して生活保護を不当に

打ち切ったと追及しました。

そうして裁判は劇的な勝訴となり、

国や行政の福祉のあり方を大きく

変える、初めての判決を勝ち取った

のです。

この勝訴は、のちにホームレス

自立支援法の制定へとつながりました。

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山口組の組長を訴追

竹下義樹さんのことを

武闘派の弁護士」と呼ぶ人がいます。

敗訴の確率の高い、国を相手にした

裁判にも臆せず立ち向かう、

それどころか、暴力団の山口組の

組長を相手取って裁判を起こした

こともあるからです。

暴力団の構成員の凶行によって

死亡した人の遺族とともに、

事件を末端の実行犯の逮捕に

終わらせず、トップの組長の

責任を追及したのです。

組員の犯罪は組長の指図あっての

ものでとかげのしっぽ切りは

許されない、という決意でした。

ヤクザが相手となり、当然、

竹下義樹さんの身には危険が

及びました。

なんと拳銃を向けられて脅された

こともあったといいます。

でも目が見えないから拳銃も見え

なかったので、怖くなかった

竹下義樹さんは笑いますが、

比喩でなく、現実の暴力の戦いも

降りかかる裁判となりました。

しかし、一歩も引かずに最高裁まで

争った結果、竹下義樹さんは勝訴を

掴みました。不可能と言われていた、

暴力団組長への責任追及を実現させた

のです。

この裁判は歴史的な判決とされ、

その後の裁判に大きく影響を与えました。

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事務所設立~現在

いくつもの歴史的判決を勝ち取ってきた

竹下義樹さんは、2011年、京都に

つくし法律事務所を立ち上げ、

所長に就任しました。

現在は、コロナ関連で困窮している

人の相談に積極的に乗っています。

法律にただ従うのではなく、困って

いる人や被害者の気持ちを大事に、

という竹下義樹さんの戦いは、

まだまだ続いています。

以上、弁護士の竹下義樹さん

ついてでした。

ではでは~

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