羽中田昌悲劇の天才サッカー選手病気ケガ18歳で下半身不随『消えた天才』

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小中学校で天才サッカー選手として、大いに注目・期待されていた羽中田昌(はちゅうだ・まさし)さん。

しかし彼は、病気やケガに見舞われ、全国大会決勝の後半20分を最後にサッカー界から消えました。

その伝説にして苛烈な人生をクローズアップしたいと思います。

決勝戦後にも容赦ない悲劇に襲われ、事故で車いす生活に追い込まれた羽中田さん。

「なんで俺だけが!」と慟哭するほど残酷な運命にもかかわらず、サッカーをあきらめなかった彼は、指導者を目指し留学、監督としてサッカー場に戻ったのです。

その闘志の半生を追ってみたいと思います。

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サッカーとの出会い

羽中田さんは1964年生まれ。

小学生の時に、兄と見たワールドカップ決勝戦に魅了され、サッカーの世界に入りました。

人一倍のめりこんだこともあるでしょうが、実力は天才級でした。

試合に出れば、5点、6点取るのは当たり前。

小学校5年、6年時には、全国サッカー少年団大会で連続優勝、最優秀選手に選ばれました。

中学に上がると、ジュニア・ユース選手を育てるナショナルトレーニングセンターの1期性に選ばれ、中学3年の15歳の時には17、18歳の選手に交じってユース代表合宿にも参加します。

貧血~足首の骨折~股関節の剥離骨折

しかし、高校進学した羽中田さんを病が襲います。

1年の時に、貧血を発症したのです。ただの立ちくらみなどとは違い、血液中の赤血球が減少、あるいは欠損して体が酸素欠乏の状態になる、重篤な病気です。

さらに、高校選手権に向けての練習中に足首を骨折。痛み止めの注射を打ちながらプレーに参加しました。

2年の時の高校選手権では、フォワードからミッドフィルダーに転身、ゲームメーカーとしてチームを引っ張りました。

ところが、予選を突破した時に右足に痛みを感じ、病院へ行くと、右股関節の剥離骨折が判明しました。本大会出場時は、またしても痛み止めの注射を打ちながらのプレーでした。

その努力は実り、チームは優勝を果たします。

しかし,その直後にまたしても病魔が彼を襲いました。

風邪をひいたと思いながら無理して練習に参加したところ、監督から顔色が悪いので保健室へ行けと言われます。

すぐに病院へと連れられ、受けた診断は急性腎炎。即入院という重篤な容態でした。

闘病を経て3年の5月には退院しますが、運動は禁止。減塩食をとって、安静する日々が続きます。検査を続けても数値は良くならず、夏になってもサッカーはできず、チームはインターハイ予選で敗れてしまいました。

高校サッカーはあきらめ、羽中田さんは大学でのサッカーに希望をつないで受験勉強をしました。

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最後の試合 全国高校サッカー選手権決勝

幸運なことに闘病のかいあって、羽中田さんの病状は回復を見せ始めました。

医師から「15分ならプレーしてもいい」と許可が下ります。

3年生、最後の高校全国大会に、2回戦、準決勝と後半15分に出場、決勝へと進みました。

決勝前半でいきなり3点を奪われたことで、羽中田さんは残り15分の出場を10分早めてピッチに入ります。

(出典 : https://gendai.ismedia.jp/articles/-/59380)

その瞬間、国立競技場が湧きたちました。

羽中田さんの猛攻は全く止められず、すぐに1点を取り返します。

3対1から、さらに羽中田さんが猛攻、相手をすべてかわしシュート・・・

しかし、ボールはキーパーに阻止されました。

結果はさらに1点を許して4対1の準優勝でした。

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悲劇の事故 下半身不随に

羽中田さんは高校卒業後、ヨーロッパでプロになることを夢見ました。

しかし、友人と遊んだ帰り道で、バイクのタイヤがパンク。

道路に激しくたたきつけられた羽中田さんは、両脚が全く動かないことに気づいて、恐怖とともに叫びました。

「なんでオレばっかりこんなことになるんだ!」

診断は、脊髄損傷による下半身不随

二度とサッカーはできないという宣告でした。それどころか、歩くことすらできなくなっていました。

もう、サッカーのことを考えないようにしよう。そう思ったと羽中田さんは言います。

再三にわたる手術と、懸命のリハビリを経て、サッカーとは全く関係のない山梨県庁に就職しました。

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バルセロナへ 指導者を志す

1993年に開幕したJリーグで、以前のライバルたちが活躍している姿を羽中田さんは見ました。

そして、壮絶な悲劇にさいなまれたにもかかわらず、再びサッカーへの情熱が戻ってくるのを感じたのです。

1995年、羽中田さんは県庁を辞め、スペインのバルセロナに留学しました。

指導者としてサッカーに関わることはできる。

そう思ったのです。

5年間を過ごし、2000年に帰国。

翌2006年にはJリーグチームの監督も務められる指導者ライセンスを取得しました。

日本サッカー界でただ一人の、車いすのサッカー監督として、羽中田さんの人生が始まったのです。

病気、ケガ、事故。再三の壮絶な不幸に見舞われながらも、立ち直れたのは、高校時代の同級生で、現在の妻であるまゆみさんの言葉がありました。

「諦めなければ目標は逃げないんじゃないの」

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まとめ

人より優れた才能を持ちながら、人の何倍も絶望したであろう羽中田さんの心境は、本人にしかわからない、苛烈な経験に満ちていました。

それは、自ら命を絶ってもおかしくない、心が壊れても仕方ないくらいの絶望だったと思います。

ですが、それでもサッカーの夢をあきらめなかった。サッカーこそが羽中田さんを死と絶望の淵から救い上げたということが、何よりも強烈に感じられました。

現在55歳となった羽中田さんは、今も変わらずサッカーへの情熱を持ち続けています。

「もう自分を責めるのはやめた。過去への後悔と未来への不安を一切捨てよう」

この言葉に、私は人間の強さというものを感じずにはいられませんでした。

今の羽中田さんの脚代わりは、車いすで乗れるバイクです。

どうか彼のゆく先に、人一倍の幸せがありますようにと、祈らずにはいられません。

(出典 : https://www.hachumasa.com)

以上、羽中田昌さんの紹介でした。

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