(出典 : https://seikeidenron.jp/articles/7840)
今回は、山口県の過疎の町で、従来のやり方にとらわれない、新しい酒「獺祭(だっさい)」を開発。日本のみならず、世界に羽ばたいた旭酒造の桜井博志さんをクローズアップしたいと思います。
「獺祭」という、見慣れない漢字の名前は、旭酒造の住所である獺越(おそごう)という地名から取ったもので、「獺」の訓読みはカワウソ。そして「獺祭」とは、カワウソが採った魚を並べる姿から、文筆家が参考資料をまわりに広げ散らかすさまを示すそうです。
このお酒を店頭で見た時は、読めないなあと思ったのですが、意外と詩的な名前だったんですね。
しかし、獺祭が生まれるまでには幾多の失敗と、会社倒産の危機さえあったのだとか。
酒造の世界は、社長の桜井博志さんの人生にも様々な影を落としたようです。
プロフィール
桜井博志(さくらい・ひろし)さんは1950年生まれ。
山口県の小さな町の酒造の三代目として誕生しました。
子どもの頃は酒蔵を遊び場にして育ち、大学卒業後は外の風を知るべく西宮酒造(現・日本盛に就職して3年半修業します。
そして、1976年に父の経営する旭酒造に戻りました。
ところが、東京の大手企業で経験を積んだ桜井さんには、父の田舎の酒造が狭い世界にしか見えませんでした。
そのすれ違いはある日、父からの出社禁止令となって桜井さんを締め出します。
桜井さん自身も反発して家を出て、石材の会社を設立。年商2億にまで成長させて成功を収めます。
しかし、1984年、父の死によって、旭酒造に戻ることに。しかも業績は悪化しており、桜井さんが立て直す他にありませんでした。
日本酒は冬に作られるので、夏の間は蔵が使われないことに目を向けた桜井さんは、夏にも蔵を稼働させて、地ビールを作ろうとしますが、失敗。
わずか3か月で2億円弱の損失を出して撤退という辛酸をなめさせられました。
「獺祭」誕生
肝心の日本酒の製造も、社会的に追い込まれていました。
日本酒の消費量は最盛期の3分の1にまで落ち込み、業界全体が苦境にあったのです。
そのため、業界は価格を下げるなどの対応をしていました。
しかし、桜井さんは逆張りを仕掛けます。
「お酒のハードルを上げる」と決めたのです。
安価な普通酒や紙パック酒の製造をやめ、高級路線を打ち立てました。
「酔っぱらうための酒でなく、味わうための酒を求める」という立ち位置を取り、大吟醸一本に商品を絞りました。
しかし、現実としての経営難は深刻で、なんと杜氏がいっせいに退職してしまいます。
杜氏の経験と勘がすべて、と言われた日本酒製造の世界では絶体絶命に思われました。
それでも桜井さんはめげることなく、逆に杜氏の制度を廃止してしまいます。
「経験と勘」であった醸造のプロセスを徹底して数値に置き換え、科学的な作業に落とし込んだ、新しい酒造を開発したのです。
それは同時に、空調管理による、四季を問わない通年酒造も可能にしました。
さらに、「磨き」と呼ばれる精米を外注に委託し、ここにもデータ解析による精米歩合を導入し、「磨き二割三分」を達成しました。
さらには、従来の工程をくつがえす「遠心分離システム」も導入、もろみから酒を取り出す方法に遠心力を導入するという、業界初の製造法を開発したのです。
そうして「獺祭」というお酒が完成しました。
(出典 : https://matome.naver.jp/odai/2139336003553481801?page=2)
バリエーションには、「獺祭 純米大吟醸 磨き 二割三分」、「獺祭 純米大吟醸 遠心分離」など、新しい製法がそのまま付けられています。
「獺祭」は大成功を収め、旭酒造を救いました。
その人気ぶりを皮肉にも象徴したのが、2017年に旭酒造が出した異例の広告です。
(出典 : https://www.itmedia.co.jp/business/articles/1712/11/news070.html)
「獺祭」があまりに売れすぎて品薄になるや、プレミア価格を乗せ、価格の2倍以上で販売する業者が続出したのです。
そのため、消費者に正規の価格を知ってほしい、高い酒は買わないでほしいという内容でした。
過疎の地域の小さな酒造は、全国区へと躍進したのです。
海外進出へ
日本酒の良さを知ってほしい、という願いは、国内から国外へとさらに広げられました。
日本酒の伝統を全く知らない外国人でも、「おいしいもの」として飲んでほしい。
おいしいものに国境はない、というのが桜井さんの信条でした。
香港、マカオ、台湾などのアジア圏から、さらにアメリカ、フランスの欧米圏へ「獺祭」は進出します。
2002年には、ヨーロッバの権威あるモンド・セレクション大会で3年連続で金賞を受賞する快挙を成し遂げました。
2014年にはフランス・バリの一等地に獺祭パリ店をオープン。
三ツ星の巨匠、ジョエル・ロブションの店にも採用されました。
(出典 : https://matome.naver.jp/odai/)
アメリカでも、ロサンゼルスのインターナショナルワイン&スピリッツコンペティションで金賞を受賞。
IWC(世界中の酒のコンクール)では、SAKE部門で銀賞、金賞を受賞しました。
まとめ
日本酒の世界は一昔前まで、イメージの悪さに悩んできたといいます。
一升瓶を抱え、真っ赤になって酔っ払ったおっさんが、さらに酔うためにラッパ飲みして、まわりに迷惑をかけたり、家族を困らせたり・・・という、素行の悪いイメージです。
(出典 : https://itamaeillustration.com/2017/05/17/yopparaicolor/)
そこから脱出し、味わうもの、楽しむもの、というクリーンなイメージを作るために、近年の日本酒業界は苦労をしてきたそうです。
「獺祭」もまた、酒造の伝統や、そうした日本酒の立ち位置を変えてきた酒のひとつなのだと思います。
桜井さんの旭酒造をめぐる人生は、まさに紆余曲折ですが、一度は放逐され、外の世界へと出た人だからこそ、伝統や常識にとらわれない改革ができたのでしょう。
回り道は決して無駄ではなく、「獺祭」という新しいお酒が生まれるためにすべて必要だったように見えてきます。
その新しさが世界に広がってSAKEを知らしめたのも、酒のすべてに革新を起こした「獺祭」ならではの成功だと思います。
以上、旭酒造三代目の桜井博志さんと獺祭の紹介でした。ではでは~